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へるを、御顏におしあてゝ、

  「たらちねの消えやらで待つ露の身を風よりさきにいかでとはまし。

   八百よろづ神もあはれめたらちねの我待ちえむとたえぬたまのを」。

初雁のつばさにつけつゝ、こゝかしこより哀なる御せうそこのみ常は奉るを御覽ずるにつけても、あさましういみじき御淚のもよほしなり。家隆の二位は新古今の撰者に召しくはへられ、大かた歌の道につけてむつまじく召しつかひし人なれば、夜晝戀ひ聞ゆる事かぎりなし。かの伊勢より須磨にまゐりけむもかくやとおぼゆるまで、まきかさねて書きつらねまゐらせたる、「和歌所のむかしのおもかげ、かずかずに忘れがたう」など申して、つらき命の今日まで侍ることのうらめしきよしなど、えもいはずあはれおほくて、

  「ねざめして聞かぬをきゝてわびしきはあら磯なみのあかつきの聲」

とあるを法皇もいみじとおぼして御袖いたくしぼらせたまふ。

  「浪間なきおきの小島のはまびさしひさしくなりぬみやこへだてゝ。

   木がらしのおきのそま山ふきしをりあらくしをれてもの思ふころ」。

をりをりよませ給へる御歌どもを書きあつめて修明門院へ奉らせ給ふ。その中に、

  「水無瀨山我がふるさとはあれぬらむまがきはのらと人もかよはで。

   かざしを借る人もあらばやこととはむ〈ぬイ〉沖のみ山にすぎは見ゆれど。

   限あればさてもたへける身〈こイ〉のうさよ〈はイ〉民のわらやに軒をならべて」。