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やうの料理つかまつりてむや」などのたまふを、秦のなにがしとかいふ御隨身、高欄のもと近く侍ひけるが承はりて、池の汀なるさゝを少ししきて、白きよねを水に洗ひて奉れり。「ひろはゞ消えなむとにや、これもけしかるわざかな」とて御ぞぬぎてかづけさせ給ふ。御かはらけたびたびきこしめす。その道にもいとはしたなうものし給ふ。何事もあいぎやうづきめでたく見えさせ給ふ御有さまなど、千とせを經とも飽く世あるまじかめり。また淸撰の御歌合とてかぎりなくみがゝせ給ひしも、水無瀨殿にての事なりしにや。當座の衆儀判なれば、人々の心ちいとゞおき所なかりけむかし。建保二年九月のころ、すぐれたるかぎりぬきいで給ふめりしかば、いづれかおろかならむ。中にもいみじかりし事は第七番に左、院の御歌、

  「あかしがた浦路はれゆくあさなぎに霧にこぎいるあまの釣舟」

とありしに、きたおもての中に藤原の秀能とて年ごろもこの道にゆりたるすきものなれば、召し加へらるゝ事常のことなれど、やんごとなき人々の歌だにも、あるは一首二首三首にはすぎざりしに、この秀能九首までめされて、しかも院の御かたてにまゐれり。さてありつるあまのつり舟の御歌の右に、

  「契りおきし山の木の葉の下もみぢそめしころもに秋風ぞふく」

とよめりしは、その身のうへにとりてながき世のめいぼく何にかはあらむとぞきゝ侍りし。むかしの躬恆が御はしのもとに召されて、「ゆみはりとしもいふ事は」と奏して、御ぞたまはりしをこそいみじきことにはいひ傳ふめれ。又貫之が家に枇杷のおとゞ、魚袋の歌のかへし