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十二月一日御ふみはじめせさせ給ふ。御年七つなり。同六年女御まゐりたまふ。月輪關白殿の御むすめなり。きさきだちありき。後には宜秋門院と聞え給ひし御事なり。この御腹に春花門院と聞えたまひし姬宮ばかりおはしましき。建久元年正月三日、御年十一にて御元腹したまふ。おなじき三年三月十三日に、法皇かくれさせ給ひにし後は、御門ひとへに世をしろしめして四方の海波しづかに、ふく風も枝をならさず、世をさまり民やすくして、あまねき御うつくしみの浪秋津島の外までながれ、しげき御惠筑波山のかげよりもふかし。よろづの道々にあきらけくおはしませば、國に才ある人おほく、むかしに耻ぢぬ御代にぞありける。中にもしき島の道なむすぐれさせたまひける。御歌かずしらず、人の口にある中にも、

  「奧山のおどろの下もふみわけてみちある世ぞと人にしらせむ」

と侍るこそまつりごと大事とおぼされけるほどしるく聞えて、いといみじくやんごとなくははべれ。建久九年正月、第一の御子〈土御門院〉四つになり給ふに御くらゐゆづり申させ給ひておりゐ給ふ。位におはします事十五年なりき。今日明日はたちばかりの御齡にていとまたしかるべき御事なれども、よろづ所せき御ありさまよりはなかなかやすらかに、御幸など御心のまゝならむとにや。世をしろしめす事は今もかはらねばいとめでたし。鳥羽殿白河殿などもしゆりせさせ給ひて常に渡りすませ給へど、猶又水無瀨といふ所に、えもいはずおもしろき院づくりして、しばしば通ひおはしましつゝ、春秋の花もみぢにつけても御心ゆくかぎり世をひゞかしてあそびをのみぞしたまふ。所がらもはるばると川にのぞめる眺望いとおもし