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され給はず。又の年養和元年正月十四日に院さへかくれさせ給ひにしかば、いよいよ位などの御のぞみあるべくもおはしまさゞりしを、かの新帝平家の人々にひかされて、遙なる西の海にさすらへ給ひにし後、後白川の法皇、御うまごの宮たちわたし聞えて見奉り給ふ時、三の宮を次第のまゝにおぼされけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて泣き給ひければ、「あなむづかし」とてゐてはなち給ひて、「四の宮こゝにいませ」とのたまふに、やがて御膝のうへに抱かれ奉りて、いとむつましげなる御けしきなれば、「これこそまことのうまごにおましけれ。故院の兒おいにもふ〈まイ〉みなど覺え給へり。いとらうたし」とて、壽永二年八月二十日、御年四つにて位に即かせ給ひけり。內侍所神璽寳劔は讓位の時必ずわたる事なれど、先帝筑紫へ〈にイ〉ゐておはしにければ、こたみ始めて三種の神器なくて、めづらしきためしになりぬべし。後にぞ內侍所しるしの御箱ばかりかへりのぼりにけれど、寶劔はつひに先帝の海に入り給ふ時、御身にそへて沈み給ひけるこそいとくちをしけれ。かくてこの御門、元曆元年七月廿八日御即位、そのほどの事常のまゝなるべし。平家の人々いまだ筑紫にたゞよひて、先帝と聞ゆるも御このかみなれば、かしこに傳へ聞く人々のこゝち、上下さこそはありけめと思ひやられていとかたじけなし。同じ年の十月廿五日にごけい。十一月十八日大甞會なり。しゆきがたの御屛風のうた、兼光の中納言といふ人、丹波の國長田村とかやを、

  「神代よりけふのためとや八束穗にながたのいねのしなひそめけむ」。

御門いとおよすげてかしこくおはしませば、法皇もいみじううつくしとおぼさる。文治二年