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ろくなむ。元久の頃、詩に歌をあはせられしにも、とりわきてこそは、

  「見わたせば山もとかすむみなせ川ゆふべは秋となにおもひけむ」。

かやぶきの廊渡殿などはるばると、艷にをかしうせさせ給へり。御まへの山より瀧おとされたる石のたゝずまひ、苔ふかきみ山木に枝さしかはしたる庭の小松も、げにげに千世をこめたるかすみのほらなり。せんざいつくろはせ給へる頃、人々あまた召して御遊などありける後、定家の中納言いまだ下﨟なりける時に奉られける。

  「ありへけむもとの千年にふりもせでわか君ちぎるみねのわか松。

   君が代にせきいるゝ庭を行く水の岩こすかずは千世も見えけり」。

今の御門の御諱は爲仁と申しき。御母は能因法印といふ人のむすめ、宰相の君とて仕うまつられけるほどに、この御門生れさせ給ひて後には內大臣〈通親〉の御子になり給ひて、すゑには承明門院ときこえき。かのおとゞの北の方の腹にておはしければ、もとより後のおやなるに、御さいはひさへひき出で給ひしかば、まことの御むすめにかはらず。この御門もやがてかの殿にぞ養ひたてまつらせ給ひける。かくて建久九年三月三日御即位、十月廿七日に御禊、十一月は例の大甞會なり。元久二年正月三日御かうぶりしたまひて、いとなまめかしくうつくしげにぞおはします。御本性も父御門よりは少しぬるくおはしましけれど、御情ふかう物のあはれなど聞し召しすぐさずぞありける。今の攝政は院の御時の關白〈基通〉のおとゞ、その後は後京極殿〈よしつね〉ときこえ給ひし、いと久しくおはしき。このおとゞはいみじき歌のひじりにて、