Page:Kokubun taikan 07.pdf/52

提供:Wikisource
このページは検証済みです

せ給ひ、御前よりもまたとりわきさるべき物ども出させ給ふ。御みづからも淸き御ぞ奉り、かぎりなくきよまはらせ給ひて、僧にたまはらするものどもは、まづ御前にとりすゑさせて拜ませ給ひてぞ後につかはしける。惠心僧都の頭陁行せられけるをりも京中にこぞりていみじき御ときを設けつゝまゐりしに、この宮よりはうるはしくかねのごきどもうたせ給へりしかばこそ、かくてはあまり見苦しとて僧都乞食とゞめ給ひてき。今一所の姬君は花山院の御時の女御にて、四條の宮に尼にておはしますめり。やがて后女御のひとつはらの男君、唯今按察大納言の公任と申す。小野の宮の御孫なればにや歌の道すぐれ給へり。世にはづかしう心にくきおぼえおはす。その御娘唯今の內大臣の北の方にて、年頃多く公達產みつゞけ給へる、こぞの正月にうせ給ひて、大納言よろづを知らずおぼし歎く事かぎりなし。又男君一人ぞおはする。左大辨定賴の君、若殿上人の中に心あり、歌なども上手に坐すめり。母北の方いとあてにおはすかし。村上の御九宮の御むすめ、多武峯入道少將まちをさ君の御娘の腹なり。內大臣殿のうへもこの辨の君もされば御中らひいといとやんごとなし。かの大納言殿、無心の言一度ぞのたまへるや。御妹の四條の宮后にたゝせ給ひて始めてうちへ入り給ふに、西洞院のぼりにおはしませば東三條の前をわたらせ給ふに、大入道殿も故女院も胸痛く思しめしけるに、按察大納言殿は后の御せうとにて御心ちよくおぼされけるまゝに、御馬をひかへて「この女御はいつか后に立ち給ふらむ」と、うち見いれてのたまへりけるを、殿をはじめ奉りて、その御ぞう安からずとおぼしけれど、男宮おはしませばたけくぞ、よその人々