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きゝてもおはすべきを、大后、太政大臣のおはします前を馬にてわたりたまふ。おほきおとゞいと安からずおぼせども、いかゞはせさせ給はむ。猶いかやうにてかとゆかしくおぼして、中門の北の廊の連子よりのぞかせ給へば、いみじうはやる馬にて、御紐おしのけて雜色二三十人ばかりに、さきいと高くおはせてうち見いれつゝ馬の手綱ひかへて扇高くつかひて通り給ふを、あさましくおぼせど、なかなかなる事なればこと多くもの給はで、たゞ「なさけなげなるをのこにこそありけれ」とばかりぞ申し給ひける。非常の事なりや。さるは帥の中納言殿のうへの六條殿の姬君は母は三條殿の姬君におはすれば御孫ぞかし。されば人よりは參り仕うまつりだにこそし給ふべかりしか。この賴忠のおとゞ一の人におはしましゝかど御なほしにて內に參り給ふ事侍らざりき。奏せさせ給ふ事ある折は、ほうこにてぞ參り給ふ。さて殿上に侍はせ給ひ、年中行事の御障子のもとにてさるべき職事、くらびとなどしてぞ奏せさせ給ひ、又うけたまはり給ひてける。又あるをりは、御門鬼の間に出でさせ給ひてめしあるをりぞ參らせ給ひし。關白したまへど、よそ人にておはしましければにや。故中務宮よしあきらのみこの御娘の腹に御娘二人男一人おはしまして、大姬君は圓融院の御時女御にて中宮と申しき。御年二十六。〈天元五年壬午三月五日后に立たせ給ひき。〉みこうまれおはせず。四條の宮とぞ申すめりし。いみじき有心者有識にぞいはれ給ひし。功德も御いのりも如法に行はせ給ひし。年ごとの季の御どきやうなども常の事ともおぼしめしたらず、四日がほど二十人の僧を坊のかざりめでたうて、かしづきすゑさせ給ふ、湯あむしときなどかぎりなく如法に供養せさ