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臣の位にて廿七年、天下執行攝政關白し給ひて二十年ばかりや坐しけむ。小野宮の大臣と申しき。天祿元年五月十八日うせさせ給ひにき。御年七十一と申しき。御いみな淸愼公なり。和歌の道にもすぐれおはしまして、後撰にもあまた入れり。大かた何事にも有職に御心うるはしくおはします事は世の人の本にぞひかれさせ給ふ。小野宮の南おもてには御もとゞりはなちて出でさせ給ふ事なかりき。そのゆゑは「稻荷の杉のあらはに見ゆれば明神御覽ずらむに、いかでかなめげにては出でむ」との給はせていみじく謹ませ給ふに、自らおぼし忘れぬる折は御袖をかづかせ給ひてぞ驚き騷がせ給へる。このおとゞの御女子、女御にてうせ給ひにき。村上の御時にや、確に覺え侍らず。男君は時平のおとゞの娘の御腹に敦敏の少將とて坐せし、父おとゞの御先に隱れ給ひにきかし。さていみじう思し歎くに〈これはみちのくにの守のめになりて御めのとの若君のがりとて御馬をまゐらせたるとぞ。〉あづまの方よりうせ給へりともしらで馬を奉りたりければおとゞ、

  「まだしらぬ人もありけりあづまぢに我もゆきてぞすむべかりける」。

いと悲しき事なりな」」とて目おしのごふに「「おとゞの御わらは名をばうしかひと申しき。さればその御ぞうは、うしかひをばうしつきとのたまふなり。敦敏の少將の男子佐理大貳、世の手かきの上手、任はてゝ上られけるに伊豫の國のまへなるとまりにて、日いみじう荒れ、海のおもてあしくて風おそろしう吹きなどするを、少しなほりて出でむとし給へば、又同じやうにのみなりぬ。かくのみしつゝ日ごろの過ぐれば、いと怪しくおぼして、ものとひ給へば、神の御祟とのみいふにさるべき事もなし。いかなる事にかと恐れ給ひける。夢に見え給