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ものもかくなりて侍るなり」」とて引き出でゝ見す。「「先祖の御物は何も惜しけれど、小一條のみなむように侍らぬ。人は子うみしぬるれうにこそ家もほしく侍るに、さやうのをりはほかへわたらむ所は何にかはせむ。又大方常にもたゆみなくおそろしと〈こ脫歟〉そかの入道殿には仰せらるゝなれ。この貞信公は宗像の明神うつゝに物など申し給ひけり、「我よりは御位高くて居させ給へるなむ苦しき」、と申し給ひければ、いとふびんなる御事なるかなとて神位は申しまさせ給へるなり。かの殿いづれの御時とは覺え侍らず、思ふに延喜朱雀院の御程にこそは侍りけめ。宣旨うけたまはらせ給ひて、おこなひて陣の座ざまにおはします道に南殿御帳の後の程通らせ給ふほどに、ものゝけはひして御太刀のいしづきを捕へたりければ、いと怪しくて搜らせ給ふに毛はむくむくとおひたる手の、爪は長く刀のはのやうなるに、鬼なりけりといとおそろしくおぼしめしけれど、臆したるさま見えじと念ぜさせ給ひて、「おほやけの勅定うけたまはりて、さだめにまゐる人とらふるは何ものぞ。ゆるさずばあしかりなむ」とて御太刀をひきぬきてかれが手をとらへさせ給へりければ、まどひもち放ちてこそうしとらの隅ざまへ罷りにけれ。思ふに夜のことなりけむかし。この殿ばらの御事よりもこの殿の御事申すは忝くも哀にも侍るかな」」とて聲うち變りて鼻度々うちかむめり。「「いかなりけることにか、七月にて生れさせ給へるとこそ申し傳へたれ。〈天曆三年八月十四日にぞうせさせ給ひにける。正一位贈せさせたまふ。〉

     太政大臣實賴〈小野宮殿。安和三年五月十八日薨、七十一、贈正一位。〉

これ忠平のおとゞの一男におはします。小野宮のおとゞと申しき。御母寬平法皇の御むすめ。大