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ひけるやう、いみじうけだかきさましたる男のおはして、「この日の荒れて日ごろ經給ふは、おのがしはべる事なり。それは萬の社に額のかゝりたるにおのがもとにしもなきが惡しければかけむと思ふに、なべての手して書かせむがいとわろく侍れば、われに書かせ奉らむと思ふによりこの折ならではいつかはとてとゞめ奉りたるなり」とのたまふに、「誰とか申す」と問ひ申し給へば、「この浦の三島に侍る翁なり」とのたまふに、夢の中にもいみじうかしこまり申すとおぼすに、おどろき給ひては又さらにもいはず。さて伊豫へわたり給ふに多くの日荒れつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまにおひ風吹きて飛ぶが如くまうで着き給ひぬ。湯たびたびあみ、いみじくげさいしてきよまはりて日の裝束して、やがて神の御まへにて書き給ふ。社のつかさども召し出でゝうたせて、よく法の如くして歸り給ふに、つゆ恐るゝことなくて、すゑずゑの船に至るまでたひらかにのぼり給ひにき。我がすることを人間の人のほめ崇むるだに興ある事にてこそあれ。まして神の御心にさまでほしくおぼしけむこそいかに御心おごりし給ひけむ。又大かたこれにぞ日本第一の御手のおぼえはこの後ぞとり給へりしか〈如元〉。六波羅密寺の額もこの大貳のかき給へる。さればかの三島の神の額とこの寺のとは同じ御手に侍り。御心ばへぞ懈怠はすこし如泥人とも聞えつべくおはせし。故中關白殿東三條造らせ給ひて御障子に歌繪ども書かせ給ひし色紙形をこの大貳に書けとのたまはするを、いたく人さわがしからぬ程に參りて書かれなばよかりぬべかりけるに、關白殿わたらせ給ひて、上達部殿上人などさるべき人々あまた參りつどひて後に、日たかく待た