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らに、われとや心うべき。ながらの橋といはゞこそ、われとはしらめ」といひけるもをかしく。又土御門の齋院と申して稹子內親王と申しておはしき。その齋院は常に法の筵などひらかせ給ひて、法文のことなど僧參りあひてたふとき事ども侍りけり。雅兼入道中納言などまゐりつゝ、もてなしきこえ給ひけるとかや。歌なども人々まゐりてよむ折も侍りけり。水のうへの花といふ題を、時の歌よみども參りてよみけるに、女房の歌、とりどりにをかしかりければ、木工頭俊賴も、むしろにつらなりて、「このうたは、圍碁ならばかたみせんにてぞよく侍らむ」など、とりどりに襃められけるとぞ。其のひとりは、堀河の君とて、顯仲伯のむすめのおはせしうた、

  「雪とちる花のしたゆく山水のさえぬや春のしるしなるらむ」。

また、

  「春風にきしの櫻の散るまゝにいとゞ咲きそふなみの花かな」。

この外もきゝ侍りしかど忘れにけり。入道治部卿の、「嵐や峰をわたるらむ」とよみ給ふ、そのたびの歌なり。白河の院歌どもめしよせて、御覽じなどせさせ給ひけり。一の院の御むすめなればにや、殊の外にあるべかしくぞ、宮のうち侍りける。女房中﨟になりぬれば、みづからさぶらひに物いひなどはせざりけりとぞきこえ侍りし。この齋院かくれさせ給ひてのち、そのあとに堀河の齋院つぎてすみ給ひけるこそ、むかしおぼしいでゝ中の院の入道おとゞよみ給ひける。