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この中宮の姬宮、二條の大宮とて女院の御おとうとおはしましゝ令子內親王とて、齋院になり給ひて、後には鳥羽の院の御母とて皇后宮になり給ひて、大宮にあがらせ給ひにき。いと心にくき宮のうちと聞き侍りしは、侍從大納言三條のおとゞなど、まだ下﨟におはせし時、月のあかゝりける夜、さまやつして、宮ばらをしのびて立ち聞きたまひけるに、あるは皆ねいりなどしたるも有りけり。この宮にいりたまひければ、西の對の方、しづまりたるけしきにて、人々皆ねたるにやとおぼしかりけるに、奧の方にわざとはなくて、箏のことのつまならしして、たえだえきこえけり。いとやさしく聞こえけるに、北の方のつまなる局、妻戶たてたりければ、月も見ぬにやとおぼしけるに、うちに源氏よみて「榊こそいみじけれ。葵はしかあり」など聞えけり。臺盤所の方にはさゞれ石まきて、らんごひろふ音など聞えけるをぞ、昔の宮ばらもかくやありけむと侍りける。また古き歌よみ、攝津のごといふ、又六條とて若きうたよみなどありて、折ふしにつけて心にくきごたち多く侍りけり。爲忠といひしが子の、爲業といひしにや、いづれにかありけむ、かの宮による參りて、ごたちとあそびけるに、爲忠國にまかりける程なりけるに、年老いたる聲にて、「八橋と天の橋立といづれまさりて覺えさせ給ひしとたよりに傳へ給へ」などいひけるを、後に、又あるごたち、「かくことづてし給ふ人をば、たれとかしりたまひたる」といひければ、「やつはし、あまのはしだてなど侍りけるに、心え侍りぬ」といひけるを、次の日、「よべ心えたりといはれしこそ、猶そのひとの如くおぼゆる」などいひけるをきゝて、津のごとりもあへず「心えずのことや。八橋などいはむか