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  「人しれずやみなましかばわびつゝもなき名ぞとだにいはましものを」。

     太政大臣忠平貞信公

このおとゞは是基經のおとゞの四郞君、御母本院の大臣、枇杷の大臣におなじ。廷長八年十一月廿一日攝政、天慶四年辛丑十一月、關白の宣旨かうぶらせ給ふ。公卿にて四十二年、大臣のくらゐにて三十六年、世をしらせたまふこと二十年。〈天曆三年八月十四日うせさせたまふ。御年七十。〉のちのいみな貞信公となづけ奉る。小一條の太政大臣と申す。朱雀院並に村上の御をぢにおはします。この御子五人。そのをりは我が御位太政大臣にて、御太郞左大臣にて、實賴のおとゞこれ小野の宮殿と申す。次郞右大臣師輔のおとゞ、これを九條殿と聞えさせき。第四郞師氏大納言と聞えき。五郞に又左大臣師尹のおとゞ、小一條殿と申しきかし。この四人の君たち、左右の大臣大納言にて、さしつゞきおはしましゝ、いみじかりし御榮華ぞかし。をんな子一所は先坊の御息所にておはしましき。常にこの三人の大臣だちの參らせ給ふれうに小一條の南かんでの小路には石だゝみをぞせられたりしがまだ侍るぞかし。むながたの明神おはしませば、洞院こじろのつじよりおりさせ給ひしに、雨などの降る日の料とぞうけたまはりし。大方その一町は人まかりありかざりき。今はあやしきものも馬車に乘りつゝみしみしとありき侍るはとよ。むかしのなごりにいとかたじけなくこそ見給ふれ。翁どもは今もおぼろげにては通り侍らず。今日も參るらむが腰のいたく侍りつれば、術なくてまかり通りつれど猶石だゝみをばよきてぞまかりつる。南のつらのいと惡しき泥をば蹈みこみて候ひつれば、きたなき