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﨟三人をおきて、大將になり給ひしかば、實行、雅定二人は、いりこもりておはせしを、中の院の源大納言雅定左大將になり給ひて後こそ實行、雅定、右大臣、內大臣になり給ひしか。いづれの中納言とかの、まづ右のおとゞの御慶びにおはしたりければ、其の家の門に、うま車おほくたちなみて、俄に四足たつとて異門より入りたるに、見やりたれば、かくれの方までひきつくろひて、をとこ女いろいろにとりさうず〈ぞ歟〉きて掃きのごひなどしてゆゝしく花やかに見えけるに、かくとまうし入れたれば、久しうありて、烏帽子直衣にて、物語まめやかに聞こえて、院の御こゝろざしかたじけなくなどいひて、はなうちかみてよろこびの淚おしのごひつゝ忍びあへぬ御氣色なるに、ほども歷ぬればやうやうしりぞき出でゝ、つぎに中の院に渡りて、內のおとゞの御よろこび申し給ひけれは、中門の廊に犬の足がた八つ九つありて、さりげなる氣色もせず、さぶらひ呼び出だして申しいれたれば、使にとりつゞきて、半尻なる狩衣にて出で給ひて、「慶びに渡り給へるか。大臣は大饗など申して大事おほかり。何かさとぶらひ給ふ」など云ひちらしてやみ給ひにけり。ふたりの人の變られたりし樣こそと語られけるとなむ。德大寺のおとゞの御子は、右大臣公能のおとゞ、その御はゝ按察中納言顯隆と聞こえしむすめにおはす。此のおとゞ管絃も身のざえもかたがたおはすと聞こえき。親おほぢなどは、ざえおはせぬに詩など作り給ひ、みめも心ばへもいというなる人にぞおはしける。中納言の大將になりて、右大臣までなり給へりき。このおとゞは、若くより聲もうつくしくおはしまして、藏人の少將などいひて、五節の淵醉の今樣などに、權現うたひ給ひける。內