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大夫の御弟に同じ高松の御腹の、無動寺の右馬の頭入道顯信の君ときこえ給ひし。その御名は長禪とぞ申すなる。十八にてこの世をおぼし捨てゝ、比叡の山にこもらせ給ひし、たふとくあはれになど申すもおろかなり。昔の物語どもに、こまかに侍れば、さのみやは繰りかへし申し侍らむ。長家の民部卿と申すも、やがて高松の御はらなり。御歌どもこそうけ給はりしか。「庭しろたへの霜と見えつゝ」などよみ給へるも、この御歌とこそきゝ侍りしか。この大納言、御子忠家大納言、祐家中納言など申しておはしき。母はみな美濃守基貞のむすめとぞ。大納言の御子にて、もとたゞ俊忠二人の中納言おはしき。それは經輔の大納言のむすめの御腹なり。俊忠の中納言は、それも歌よみ給ふと聞え給ひき。堀河の院の御時、をとこ女のふみかはしにも、よみ給へるとこそきゝ侍りしか。その中納言の公達は、民部大輔忠成と聞こえ給ひし、又俊成三位とておはすなり。伊豫守敦家のむすめのはらとぞ。その三位の御歌も、此の頃の上手におはすとかや。歌の判などし給ふとこそ聞き侍れ。この三位、讃岐のみかどの御時、殿上人におはしけるが、みかど位おり給ひてのち、院の殿上をし給はざりければ、

  「雲居よりなれし山路を今更にかすみへだてゝなげく春かな」

とよみて、敎長の卿につけて、奉られ侍りければ、御返事はなくて、やがて殿上仰せ下されけるとぞ。撰集には、「あやしや何の暮を待つらむ」とかやいふ歌ぞいりて侍るなる。その兄に山の大僧正とて、經たふとくよみ給ふおはすなりときこえ給ふ。

     たけのよ