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たてまつり給ひける。誠には堀河殿の御子におはす。これも帥殿の御女のはらなり。この內のおとゞの御子は、中納言基長と申しゝは、贈三位濟政の女のはらなり。彈正の尹になりたまへりしかば、尹の中納言とぞ申しゝ。三井でらに僧都とて、御子おはすとぞ。尹の中納言の弟、大藏卿長忠とておはしき。母は昭登親王の女なり。大辨の宰相より、中納言になりておはせし程に、中納言を奉りて、われ大藏卿になり、子を辨になされ侍りき。石山の辨とぞ申すめりし。賀茂にぞ限りなく仕うまつられし。中納言までなど夢に見られたりけるとかや。其の子は左少辨能忠と申しゝ。詩などよく作り給ひつ。心さとき人になむ坐しける。若くて疾くうせ給ひにき。少將入道有家と聞えし人の子にこの辨の同じ名つきたるが、わづらひける程に、公伊法印といふ人に、祈りをつけたりけるが同じ名にてとりかへられたるとぞ、世にはいひあへりし。其のとりかへ人は、まだおはすとかや。大藏卿の弟に、山の座主仁豪と申すもおはしき。南勝房とぞ申し侍りし。又律師などいひて、二人ばかりおはしき。又四位の侍從宗信と申すもおはしき。其の子は仁和寺に頑喜僧正とて東寺の長者にて此の頃おはすとぞ。尹の中納言の同じはらにおはせし、三條のおとゞの御むすめは、白河の院東宮におはしましゝ時、御息所と聞こえ給ひし。みかど位につかせ給ひて延久五年女御の宣旨かうぶり給ひき。道子の女御ときこえき。姬宮生み奉つりて後、內へも參り給はずなりにき。承香殿の女御とや申しけむ。御むすめの善子の內親王に伊勢にいつきにて下らせ給ひしに、具し奉りてぞおはしける。七十に餘りて失せたまひにき。この女御は、また何とかや申す女おはしき。春宮の