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を、この法性寺殿の御子とてぞたてまつり給へる。此の頃九條の院と申すなるべし。誠の御子ならねど、院號も關白の御子とてはべるとかや。この法性寺殿は、二條のみかどの御時も、女御たてまつらせ給ひて、中宮にたちたまひき。みかどかくれさせ給ひても、いまの新院くらゐの御時國母とて、猶うちにおはしましき。みかど位さらせ給ひしかば、里におはしませども、猶中宮と申すなるべし。御ぐしおろさせ給へるとかや。まだ御年廿三四などにやおはしますらむ。此の頃ばかり、上﨟の入道の宮、院たち、多くおはしますをりはありがたくや侍らむ。女院いつところおはします。おほみや中宮、二所のきさきの宮、齋宮さい院などかたがたきこえさせ給ふ。且はよのはかなきによらせ給ふ。佛の道のひろまり給へるなるべし。

     かざり太刀

富家の入道おとゞの御子は法性寺のおほきおとゞ、次には、宇治の左のおとゞ賴長ときこえ給へりし。女君は高陽の院と申す。泰子皇后宮と聞こえたまひき。法性寺殿の一つ御はらの姉にておはしましき。長承三年三月のころ、后に立ち給ふ。御年四十と聞こえき。保延五年院號得させ給ひき。左のおとゞ、御はゝは土佐守盛實といひしが女にやおはしけむ。其の左のおとゞは、御みめもよくおはし、御身の才も廣き人になむ聞こえ給ひし。堀川の大納言に、前書とか聞こゆる書受け傳へさせ給へりけり。そのふみは、匡房の中納言より傳はりて讀み傳へたる人、かたく侍るなるを、この殿ぞ傳へさせ給へりける。今は師の傳へも絕えたるにこそ侍るなれ。かやうにして、さまざまのふみども讀ませたまひ、僧の讀むふみも、因明などい