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り、つぎに女房になりなどしておはすとぞ聞こえられし。今にかしこき人にて、法性寺殿の、三井寺の僧都の君、養ひまして、昔に變らぬ有樣にてなむ聞こえ侍るなる。かの白川殿とて、祇園におはせしはゆかりまでさりがたく、院におぼしめされておはせしに、始めつかた、平氏の正盛といひしまゐり仕うまつりければ、隱岐守などいひけるも、後には然るべき國々のつかさなど、なりたりけれど、なほ下北面の人にてありけれど、その子よりぞ院の殿上人にて、四位五位のまひ人などしけれども、內の殿上はえせざりけるに、五節たてまつりける年、受領いまひとり、爲盛爲業などいひしが父なりし、殿上ゆるされたりしかば、忠盛、

  「おもひきや雲居の月をよそに見て、心のやみに迷ふべしとは」

とぞきこえし。其の殿上ゆるされたりしは、院の御めのとご知綱といひしがうまごなれば、いとほしみあるべき上に、近くつかはせ給ふ女房の、心ばへなどおぼしめしゆるされたる者にてありしが、子などあまた生みたりければ、殿上せさせむとおぼしめしながら、辨近衞のすけなどにもあらで、忽に殿上せむも、いかゞとおぼしめして、宇佐の使につかはしけるを、鳥羽の院の新院と申しておはしましゝ程に、長輔ときこえし兵衞の佐をつかはさむと、申させ給ひければ、かの御方に申させ給ふことさりがたくて、さらば爲忠は、今年の五節をたてまつれとてぞ殿上はゆるされける。餘りふとれりしかばにや、口かわく病ひして、十年ばかりこもりゐながら、四位の正下までのぼりしも、三條烏丸殿作りたりしたびは、をとこゝそこもりたれども、女の宮仕へをすれば、加階はゆるしたぶと仰せらるとて、順賴の中納言は、