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し。此の富家のおとゞは、御みめもふとり、淸らかに、御聲いとうつくしくて、年老いさせ給ふまで細く淸らかに坐しましき。朗詠などえならずせさせ給ふ。又箏の琴はすべて並びなく坐しましき。歌はさまでも聞こえさせ給はざりしに、宇治に籠りゐさせ給へりしときぞ、

  「さほ川の流れたえせぬ〈ひさしきイ〉身なれどもうき瀨にあひて沈みぬるかな」

とよませ給ひけるとかや。ふみのさたなどは、常にせさせ給ふとも聞こえざりしかども、天臺止觀とかいふふみをぞ、皇覺とかいひて、杉生の法橋といひしに、本書ばかりは傳へさせ給ひてけり。日每に參りて侍ひければ、まぎらはしき日も、よふけてなど思ひ出ださせ給ひつゝ、年をわたりてぞ、よみはてさせ給ひける。眞言も好みさたせさせ給ひけると聞こえき。年よらせ給ひては、御足のかなはせ給はざりしかば、わらふだに乘りて、ひかれ給ひ、又御輿などにてぞ院にも參り給ひける。御ぐしおろさせ給ひて、奈良にても、山にても、御受戒せさせ給ひき。御名は圓理とぞ聞えさせ給ひし。いづれのたびも、院の御ともにぞ、御受戒せさせ給ひける。御子の左のおとゞのことおはせしゆかりに、奈良におはしましゝが、宇治殿へは入らせ給はで、おはしましゝを、法性寺殿に、御消息ありければ、とく京の方へいらせ給へと、御かへりごと申させ給ひければ、よろこび給ひて、年頃の御中もなほらせ給ひて、播磨とてときめかせ給ひし人の、都の北に、雲林院か、知足院かに侍るなる堂にぞおはして、うせさせ給ひにし。その播磨とか聞こえし人は、世にたぐひなき、さいはひ人になむおはすめる。白川殿に、唯同じさまなるはじめにやおはしけむ、後には女院の、はしたものなどいふことにな