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大原うとくおぼゆとぞよろこびいふとて、戯ぶれられける。左京のかみ顯輔のいはれけるは「大夫の大工なるべし二條の大宮つくりても加階し、その御堂造りても、また院の御所つくりても加階す」といはれけると聞こえしにあはせて、木工の權頭をぞ、かけづかさにしたりし。貫之がつかさなればとて、なりたりけるとかや。その人まだ幼きほどなりけるに、白河の法皇の、六位の殿上したりけるに、それがしと召しけるを、人の召し次ぎければ、「藤原の、異姓になるは、あしき事なり」とてもとの姓になるべきよし仰せられけるも、猶むかしの御いとほしみの、殘りけるとぞ聞こえし。爲章といひし人も、本はためのりといひけるを、白河の院のためあきらと召したりけるより、かはりたるとかや。おほぢの高大貳は、なりのりといひしかども、此のころその末は、むねあきらなどいへるは、召しけるより改まりたるとかや。白河の院は、はかなきことも仰せらるゝことの、かくぞとゞまりける。又御心の敏くおはしまして、時の程に、おもほし定めけるは、信濃守惟明といひしが、式部の丞の藏人なりし時、女房の局の前にゐて、ものなど申しけるに、殿まゐらせ給ふとて、庭におりて居ければ、女房參りて「關白の參り候ふ」など申しければ「關白ならばさきこそ逐はめ。をこのものは、兄の知綱が參るをいふにこそあらめ」と仰せられけるに、「伯耆守の參られたりける」とぞ女房語られける。かの雲居の月よめりし忠盛は、なかなかに院かくれさせ給ひて後にぞいつしか殿上ゆるされたりし。その時、殿上の硯のはこに、かきつけられたりける歌ありけりと聞こえしは、みなもとなのる雲の上はなにさへのぼるなりけりとかや。忘れておぼえ侍らず。山城と伊勢