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ゝつけさせ給ひて、「たゞいけ」とて薄色の指貫のはりたる、香のそめ布など納殿よりとり出ださせて、俄に縫はせて、御鞠、花の枝につけて、みまやの御馬にうつし置きて、出だしたてゝつかはしければ、けふこそ此のついでに、女に見えめとおもひて、日ごろはあはぬ女の家のさじきに馬うちよせて、かたらふほどに、御馬にはかにはねおとして、まへのほりけにうちいれてけり。かしらくだりのこる所なく、土かたに浴みたりけるを、女、家にいれてあらひあげて、いとほしさにこそあひにけれ。御馬走りてみまやに立ちにけり。あやしく聞こしめしけるほどに、ゐかひ追ひつきて、かくと申しければ、いかにあさましく、をかしくおぼしめしけむ。さてしばしはえさし出でもせざりけるとぞ聞こえ侍りし。

     波の上のさかづき

この大殿の末、廣くおはしますさまは、をのこ公だち、よに知らず多くおはしまして、をとこ僧も、あまたおはしますに、御むすめぞおはしまさぬ。六條の右のおとゞの御むすめを、殿の御子とて、白河の院の東宮と申しゝ時より、御息所にたてまつり給へりし、賢子の中宮とて、堀河の院の御母なり。宮々おほく生み奉り給へりき。その御事はみかどの御ついでに申し侍りぬ。さて一の人つがせ給ふ。太郞におはしましゝ、後の二條の關白おとゞの御流れこそ、いまもつがせ給ふめれ。その御名は關白內大臣師通と申しき。御母は土御門の右のおとゞ師房と申しゝ御むすめを、山の井の大納言信家と申しゝが子にしたてまつりたまへりし御腹なり。永保三年正月廿六日、內大臣になりたまふ。御年廿一。嘉保元年三月九日關白にならせ給