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ふ。御年卅三。その三年正月、從一位にのぼらせ給ふ。右大臣の上につらなるべき宣旨かうぶり給ふ。承德三年六月廿八日、御年三十八にて、うせさせ給ひにき。大臣の位にて十七年おはしましき。このおとゞ、御心ばへたけく、すがたも御能も、すぐれてなむおはしましける。御即位などにや侍りけむ、匡房の中納言、この殿の御有樣を、ほめたてまつりて、「あはれこれを、もろこしの人に見せはべらばや。一の人とてさし出だし奉りたらむに、いかにほめ聞こえむ」などぞ、まのあたり申しける。玄上といふ琵琶をひき給ひければ、おほきなる琵琶の、ちりばかりにぞ見え侍りける。手などもよくかゝせ給ひけり。うまごの殿などばかりは、おはしまさずやあらむ。手かきにおはしましきとぞ、定信の君は人に語られける。三月三日曲水の宴といふ事、六條殿にて、この殿せさせ給ふと聞こえ侍りき。から人のみぎはになみ居て、鸚鵡の盃うかべて、桃の花の宴とてすることを、東三條にて、御堂のおとゞせさせ給ひき。その古き跡を尋ねさせ給ふなるべし。このたびの詩の序は孝言といひしぞかきけるときゝ侍りし。四十にだに足らせたまはぬを、然るべき御よはひなり。かぎりある御いのちと申しながら、御にきみのほど人の申し侍りしは、「常の事と申しながら、山の大衆の、おどろおどろしく申しけるもむづかしく、世の中心よからぬつもりにやありけむ」とも申し侍りき。

     宇治の川瀨

後の二條殿の御つぎには、近く富家殿とておはしましゝ、入道おとゞおほぢの大殿、御子にし參らせ給ふと聞こえ給ひき。御母は大宮の右のおとゞの御むすめなり。此のおとゞの御名