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とぞよめりける。又禖子の內親王と申すこそは、この中宮生みおき給へる宮におはしませ。寬德三年三月、賀茂のいつきと申しき。天喜六年御なやみによりて、いで給ふ。美作の御が「ありし昔の同じ聲かと」とよめるは、この宮のいつきのころ侍りて、思ひいだして侍りけるになむ。この宮いつきと聞こえける比、本院の朝顏を見給ひて、

  「神がきにかゝるとならばあさがほのゆふかくるまで匂はざらめや」

と侍るもいとやさしく、宇治殿の誠の御むすめ、四條のみやにおはします。後冷泉の院の中宮寬子と申す。永承元年內へまゐり給ひて、同六年皇后宮に立ち給ふ。御年十六。治曆四年四月に中宮と申す。同十二月に御ぐしおろさせ給ふ。御とし三十二。天喜四年皇后宮にて歌合せさせ給ふに、堀川の右のおとゞ「雲のかへしの嵐もぞ吹く」などよみ給ふ此のたびなり。また御身にも得させ給へりける道にこそ侍るめれ。女房の參らむと申しけるほどに、身まかりけるを聞かせ給ひて、

  「くやしくぞ聞きならしけるなべて世の哀とばかりいはましものを」

とよませたまひけむ、いとなさけ多くなむ。宇治殿のかぎりにおはしましけるに、おほ殿の「おぼしめさむ事、仰せられおかせ給へ」と申させ給ひければ「宇治と宮と」とぞ、仰せられける。宇治とは平等院の御堂の事、宮とは四條の宮の御事なり。「かくて候はむずれば御堂の事、宮の御事は、おぼつかなく思しめすこと、つゆ侍るまじきなり」とぞよく申させ給ひけるとなむ。