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しけるに、大將殿などまだ世におはしける程は、殿も人もおもりかに思ひたてまつらるゝこともなかりける折、名簿をとりいだして、手うつしにたてまつりて、「泰憲が名簿えさせ給へらむは、さりともよしあるべき事なり。思ふやうありて、たてまつるなり」と申しければ、字治にまゐらせ給ひて、かくこそ仕うまつりたれ」と申させ給ひけるにこそ、おぼえはつかせ給ひけれとぞきゝ侍りし。誠にやはべりけむ。

     雲のかへし

宇治のおほきおとゞの御むすめは、大殿の一つ御はらにて、四條の宮になむおはしましける。そのさきに、式部卿のみこの女君を子にしたてまつりて、後朱雀の院の御時たてまつらせ給へりしは、弘徽殿の中宮嫄子と申しき。その御事はさきに申し侍りぬ。いつしか、みやみや生みたてまつりて、あへなくかくれさせ給ひにし、いと悲しく侍りしことぞかし。誠の御むすめならねども、いかにくちをしくおぼしめされけむ。秋のあはれいかばかりかはかなしく侍りし。この中宮の生みたてまつり給へる姬宮は、祐子の內親王と申しき。長曆二年四月二十一日生まれたまふ。長久元年裳着し給ひき。延久四年御ぐしおろし給ふ。後に二品の宮と申しき。この宮の歌合に、宇治のおほきおとゞの御うた、

  「有明の月だにあれやほとゝぎすたゞひと聲のゆくかたも見む」

とよみたまへるなり。大貳三位、

  「秋ぎりの晴れせぬみねにたつ鹿は聲ばかりこそ人に知らるれ」