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もかゝる御榮えはありがたきなるべし。

上東門院は、一條の院のきさき、二代のみかどの御母なり。御有樣さきにこまかに申し侍りぬ。次に姸子と申すは、女院とおなじ御はらからにおはします。寬弘元年十一月、內侍のかみになり給ひてやがて正四位の下せさせ給ふ。十二月に三位にあがらせ給ふ。七年正月に二位にのぼり給ひて、同年二月に、三條の院の東宮と申しゝ女御に參り給ふ。位に即かせ給ひて、寬弘八年八月に、女御の宣旨かうぶり給ふ。長和元年二月十四日、中宮にたち給ふ。みかど位さらせ給ひて、寬仁二年十月十六日、皇后宮にあがり給ふ。萬壽四年九月十四日、三十四にて御ぐしおろして、やがてその日かくれさせ給ひにき。枇杷殿の皇太后宮と申す。隆家の帥くだり給ひけるに、この宮より扇たまはすとて、

  「すゞしさはいきの松原まさるともそふる扇の風な忘れそ」。

この宮の御はらに、三條の院の姬宮おはします。その宮禎子の內親王と申して、治安三年一品の宮と申す。萬壽四年三月廿三日、後朱雀院の東宮と申しゝ時、參らせ給ひき。御年十五にぞおはしましゝ。みかど位につかせ給ひて、皇后宮にたゝせ給ふ。後にあらためて中宮と申しき。みかどの御ついでに且は申し侍りぬ。後三條の院の御母、陽明門院と申す、この御事なり。この女院の御はらに、女宮たちおはしましき。良子內親王とて、長元九年十一月二十八日、伊勢のいつきと聞こえさせ給へりし、一品にのぼらせ給へりき。次の姬宮は、娟子の內親王と申しき、長元九年霜月の頃、賀茂のいつきと聞こえしほどに、まかり出で給ひける後、天