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喜五年などにやありけむ、なが月の比いづこともなく失せ給ひにければ、宮の內の人いかにすべしともなくて明かし暮らしける程に、三條わたりなる所に住み給ふなりけり。はじめは人の扇にひと文字を男の書きたまへりけるを、女の書き添へさせ給へりければ、をとこ又見て、ひとつ添へ給ふに、たがひに添へたまひけるほどに、歌ひとつに、かきはてたまひけるより心通ひて夢かうゝつかなることもいできて心や合せ給へりけむ、負ひ出だしたてまつりて、やがてさて住み給ひけり。をとこ咎あるべしなどきこえけれど、人がらの品も、身の才などもおはして、世もゆるし聞こゆるばかりなりけるにや、もろともに心を合せ給へればにやありけむ、さてこそ住み給ひけれ。男その程は、宰相中將など申しけるとかや。後には右のおとゞまでなり給へりき。入道おとゞの第四の御むすめ、後一條の院の中宮威子と申しき。これも同じ御はら、鷹司殿の御むすめなり。寬弘九年に、內侍のかみになりたまひて、後一條の院くらゐの御時、女御に參り給ふ。寬仁二年十月に、きさきにたち給ふ。長元九年に、御ぐしおろさせ給ふ。同九月にかくれさせ給ひにき。みかどは四月にうせさせ給ひ、きさきは九月にかくれさせ給ひし、いと悲しかりし御事ぞかし。その御はてに、さはる事有りて、江侍從參らざりけるを、人の、「などまゐらざりしぞ」と申したりければ、

  「わが身には悲しき事のつきせねば昨日をはてと思はざりけり」

とぞ聞こえける。此の后の生みたてまつり給へる姬宮、章子內親王と申し、二條の院と申す。この御事なり。後冷泉の院東宮におはしましゝ時、まゐらせ給ひて、永承元年七月に、中宮に