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かたなれば、あねの姬君を子にして、院の今宮とておはしましゝに、たてまつられたりしなり。このみかど、生みおき奉りてうせ給ひにき。后の位贈られ給ひて、贈皇太后宮懿子と申すなるべし。御おやの按察大納言も、おほきおとゞおほき一つの位おくられ給へるとなむうけ給ばる。さる事やあらむとも知らで、うせ給ひにしかども、やんごとなき位そへられ給へり。御末の盛りなるべし。はかなくて、消えさせ給ひにし露の御命も、后贈られ給へば、いきて成り給へるも昔がたりになりぬれば、殘り給ふ御名は同じ事なるべし。彼の讓られておはしましゝみかどは、新院と申してまだ幼くて太上天皇とておはしますなり。二條の院の御子ふたりおはしますなる御中に、第二のみこにおはしますなるべし。御母ことごとに聞こえさせ給ひき。この帝の御母、德大寺の左大臣の御むすめと申すめりしも、うるはしき女御などに、參り給へるにはあらで、忍びて僅に參り給へるなるべし。さればたしかにもえ承り侍らず。帝尋ねいで奉りて後、中宮養ひ奉り給ひて、母后におはしますなり。永萬元年六月二十五日、位に即かせ給ふ。御とし二つ。世をたもたせ給ふ事三年にやおはしますらむ。一院おぼしめしおきつる事にて、東宮に位を讓り奉り給ひて、まだ幼くおはしますに、太上天皇と申すも、いとやんごとなし。御年二つにて、位につかせ給ふ事、これや初めにておはしますらむ。近衞の帝は、三つにて初めて即かせ給ふと申しゝも、はじめたる事とこそうけたまはりしか。多くは五つなどにてぞ即かせ給ふ。から國には一つなる例も、おはしましけりとか聞こえき。このみかどの御母、いまの中宮育子と申して、法性寺の入道前のおほきおとゞの御むすめに、