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能信の御むすめとて、後三條の院の東宮におはしましゝ、御息所に參り給へりき。誠には閑院の左兵衞の督公成の中納言の女なり。此の中納言の御いもうとは、能信の大納言の北の方なり。このみかど天喜元年みづのとの巳六月廿日生れさせ給ひ、延久元年四月廿八日に東宮にたゝせ給ふ。御とし十七、同四年十二月八日、位につかせ給ふ。御とし廿にやおはしましけむ。位讓りたてまつらせ給ひて、次の年の五月に後三條の院かくれさせ給ひにしかば、國のまつりごと、廿一の御年より、みづからしらせ給ひて、位におはします事十四年なりしに、卅四にて位おりさせ給ひてのち、七十七までおはしましゝかば、五十六年、國のまつりごとをせさせ給へりき。延喜のみかどは三十三年たもたせたまへりしかども、位の御かぎりなり。陽成院は八十一までおはしましゝかども、院の後久しくて、世をばしらせ給はざりき。此の院は父の太上天皇世をしらせたまひしこと、いくばくもおはしまさず。さきの御なごりにて一の人のわがまゝに、行ひ給ふもおはせねば、若くより世をしらせ給ひて、院の後は、堀河の院鳥羽の院讃岐の院御子うまごひゝご、うちつゞき三代のみかどの御世、法皇の御まつりごとのまゝなり。かく久しく世を知らせ給ふ事は昔も類ひなき御有樣なり。後二條のおとゞこそ、「おりゐのみかどの門に、車立つる樣やはある」などのたまはせける。それかくれ給ひて後は、少しもいき〈おとイ〉などたつる人やは侍りし。このみかど、かん日に生まれさせ給ひたるとぞ聞こえ侍りし。又誠にやありけむ。御めのとの二位も、かん日に參りそめられたりけるとかや。されども末のさかえ給ふこと、此のころまでいやまさりにおはすめり。あしき日參れ