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てまつられき。國忌にて、その日はよろづのまつりごと侍らず。昔は后にたち給はでうせたまへれど、みかどの御母なれば、後にはやんごとなき御名とゞまりたまへり。

     司めし

此の次のみかど後三條の院にぞおはしましゝ。まだ御子におはしましゝ時、父の帝後朱雀院さきの年の冬よりわづらはせ給ひて、むつきの十日あまりの比、位さらせ給ひて、みこの宮にゆづり申させたまふとばかりにて、東宮の立たせ給ふ事は、ともかくも聞こえざりけるを、能信大納言とて、字治どのなどの御弟の、高松の腹におはせしが、御前にまゐりて「二の宮をいづれの僧にか付け奉りはべるべき」と聞こえさせ給ひけるに「坊にこそは立てめ。僧にはいかゞ附けむ。關白の、東宮のことはしづかにといへば、後にこそは」と仰せられけるを「けふ立たせ給はずは、かなふまじきことに侍り」と申したまひければ、「さらば今日」とてなむ東宮はたゝせ給ひける。やがて大夫には、その能信大納言なりたまへりき。君の御ため、たゆみなくすゝめたてまつり給へりけむ、いとありがたし。されば白河院は、まことにや大夫どのとぞ仰せらけるとぞ人は申し侍りし。二の宮とは後三條院の御事なり。このみかどは、後朱雀院の第二の皇子におはします。御母太皇太后宮禎子の內親王と申す。陽明門院この御事なり。みかど寬德二年正月十六日に東宮に立たせ給ふ。御とし十二。治曆四年四月十九日位に即かせたまふ。御年三十五。大極殿もいまだ造られねば、太政官の廳にて御即位侍りける。世を治めさせ給ふ事、昔かしこき御世にも耻ぢずおはしましき。御身の才はやんごとなき博士