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上天皇と申しき。

     第五十一桓武天皇〈延曆廿五年三月十七日崩。年七十。葬柏原陵。〉

次の御門桓武天皇と申しき。光仁天皇の御子。御母贈正一位乙繼の女、皇太夫人高野新笠なり。寶龜四年正月十四日東宮に立ち給ふ。御年三十七。そのほどの事百川が力をいれ奉りしさま光仁天皇の御事の中に申し侍りぬ。天應元年四月廿五日位に即き給ふ、御年四十五。世をしり給ふ事廿四年なり。延曆元年五月四日宇佐の宮詫宣したまふやう「吾が無量刧の中に三界に他生して方便をめぐらし衆生をみちびく、名をば大自在王菩薩となむいふ」とのたまひき。たふとく侍る事なり。同三年五月七日、蛙三萬ばかりあつまりて三町ばかりにつらになりて難波より天王寺へ參りにき。「この事都うつりのあるべき相なり」と申しあへりしほどに廿六日に山城の長岡に京たつべしといふ事出できて、人々を遣してその所を定めさせ給ひき。六月に長岡の京に宮づくりを始めさせ給ふ。諸國の正稅六十八萬束を大臣以下參議已上にたまひて、長岡の京の家を造らしめ給ふ。十一月八日の戌の時より丑の時まで空の星はしりさわぎき。十一日戊申長岡の京にうつり給ふ。同四年七月中の十日頃に傳敎大師比叡の山に登りて住みはじめ給ひき。生年十九にぞなり給ひし。八月にならの京へ行幸侍りき。こぞ都長岡にうつりにしかども、齋宮は猶奈良におはしましゝかば伊勢へ下らせ給ふべき程近くなりて行幸ありしなり。長岡の京には中納言種繼留主にて侍ひしを、御門の御弟の早良親王東宮とておはせしが、人をつかはして射殺さしめ給ひてき。事のおこりは御門常にこ