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こかしこに行幸し給ひて、世の政事を東宮にのみあづけ奉り給ひしかば、天應二年に佐伯今毛人といひし人を宰相になさせ給ひたりしを、御門かへらせ給ひたりしに、この種繼「佐伯の氏のかゝる事はいまだ侍らず」と御門に申しゝかば、宰相をとり給ひて三位を經させたまひてしを、東宮世に口をしきことにおぼして「種繼をたまはらむ」と申しゝを、御門むづかり給ひて更に聞き給はずして、この後東宮に政事をあづけ奉り給ふことなくなりにしを、安からずおぼして、そのひまを年比うかゞひ給ひつるによき折ふしにてかくし給ひつるなり。御門ならより歸り給ひにき。丙戌の日行幸はありて、今日は壬辰の日なれば七日といひしに歸り給へりとぞ覺え侍る。この頃はいむなど申すとかや。かくて十月に東宮を乙訓寺にこめ奉り給へりしに、十八日までその命たえ給はざりしかば、淡路の國へ流し奉り給ひしに、山崎にてうせ給ひにき。延曆七年にこぞの冬より今年の四月まで五月のほど雨ふらで世の人この事をなげきしに、御門御ゆどのありて御身を淸めて庭におりて祈りこひ給ひしかば、しばしばかりありて空くらがり雲いできて忽に雨くだりて世の人よろこぶ事かぎりなかりき。今年傳敎大師比叡の山に根本中堂を建て給ひき。生年二十二にぞなり給ひし。やがて今年とぞ覺え侍る、弘法大師讃岐より京へ上り給ひき。生年十五にぞなり給ひし。同十年八月辛卯の日の夜ぬす人伊勢太神宮を燒き奉りき。今もむかしも人の心ばかりゆゝしきものは侍らず。十月に東宮伊勢へまゐらせ給ひき、御病のをりの御願とぞうけたまはりし。この東宮と申すは平城天皇におはします。同十二年に今の京の宮城を造り給ひき。同十三年十二月廿二