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りて法師になり給ひしは。年十二になり給ふとぞ承りし。もと近江の國の人に坐しき。同十年五月に阿部仲麿もろこしにてうせにけりと聞え侍りき。家乏しくして後の事などかなはずと、御門聞しめして絹百疋綿三百屯をなむ給はせし、この人なり。もろこしにて月のいづるを見て、この國の方を思ひ出して「三笠の山にいでし月かも」とよめりき。七月五日あるかむなぎ百川に、「この月の九日物忌かたくすべし。あなかしこ」といひしかば、百川常に夢見さわがしきことを思ひ合せて、かむなぎの事を賴みて、九日になりて戶をさしかためて籠り居たるほどに、泰隆といふ僧は年ごろ百川がいのりをして相賴めりしものなり。その僧の夢に、井上の后を殺すによりて百川が首を斬る人ありと見て、おどろきさめて、即ち百川がもとへはしり行きてこの事を吿げむとするに百川かむなぎのをしへに從ひてこの泰隆にあはず。泰隆爪はじきをしてかへりにき。この日百川俄にうせにき、年三十八になむなりし。私の心なく世のためとてこそは申し行へりしかども、遂にかくまたなりにし。凡夫の心はいかに侍るべきにか。御門「わが位をたもてることは偏に百川が力なり。永くそのかたちをも見るまじきこと」とのたまひ續けて泣き歎かせ給ふ事かぎりなかりき。さらなり、又東宮の御なげきおぼしやるべし。御かたちも變るほどにならせ給ひしかば、見奉る人「いかにかくならせ給へるぞ」と申しゝかば、「百川我がために身をも惜まず力をつくせりき。われさせるむくいなし。今計らざるに命をうしなひつ。この事を思ふにかくなれるなり」とのたまひし、誠にことわりと覺え侍りしことなり。天應元年四月三日、御門位を東宮にゆづり奉り給ひて太