Page:Kokubun taikan 07.pdf/251

提供:Wikisource
このページは校正済みです

て今日にいたるまでかたみにふた心なくおぼし通はし給へるに、御年の程の今はいかゞはなどおぼし慰むべきにもあらず。今年五十六にこそはなり給ひしか。事にふれておぼし續くるに、げにことわりと御門の御心の中推しはかられ侍りし事なり。大臣は大中臣美氣子卿の子におはす。十年と申しゝ正月五日、御門の御子に大友皇子と申しゝを太政大臣になし奉り給ひき。二十五にぞなり給ひし。東宮などにぞ立ち給ふべかりしを御門の御おとゝの東宮にては坐しましゝかばかくなり給へりしにこそ。九月に御門例ならずおぼされしかば、東宮を呼び奉りて「わが病重くなりたり。今は位ゆづり奉りてむ」との給はせしかば東宮」あるべき事にも侍らず。身に病多く侍り。后宮に位を讓り奉りたまひて大友の太政大臣を攝政とし給ふべきなり。われ御門の御爲に佛道を行はむ」と申し給ひて、やがてかうべをそりて吉野山に入り給ひにき。さて十月にぞ大友太政大臣は東宮に立ち給ひし。十二月三日御門御馬にたてまつりて山科へおはして林の中に入りてうせ給ひぬ。いづくにおはすといふことを知らず。唯御沓の落ちたりしを陵にはこめ奉りしなり。

     第四十一天武天皇〈治十五年崩。年。葬大和國檜隈大內陵。〉

次の御門天武天皇と申しき。舒明天皇の第三の御子。御母齊明天皇なり。天智天皇の御世七年二月に東宮に立ち給ふ。癸酉の年二月廿七日に位に即き給ふ。世を知り給ふこと十五年なりこの御門うち任せては位を繼ぎ給ふべかりしかども又あり難くして即き給ひしなり。世を遁れ給ひしこと、天智天皇の御事の中に申し侍りぬ。天智天皇十二月三日うせさせ給ひにし