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かば、同五日大友皇子位をつぎ給ひて明くる年の五月になほこの御門を疑ひ奉りて、出家して吉野の宮に入り籠らせ給へりしを、左右の大臣諸共につはものをおこして吉野の宮を圍み奉らむと謀りし程に、この事漏り聞えにき。美濃尾張の國に天智天皇の陵をつくらむ料とて人夫をその數召すに、皆つはものゝ具をもちて參るべきよし仰せ下さる。「この事更に陵のことにあらず。必ず事の起り侍るべきにこそ。この宮を逃げ去り給はずばあしかりなむ」と吿げ申す人あり。又「あふみの京よりやまとの京まで所々に皆つはものをおきて守らしめ侍り」など申す人もありき。大友皇子の御めはこの御門の御女なりしかばみそかにこの事のありさまを御消息にて吿げ申し給へりけり。吉野の宮には位をゆづり世を遁るゝ事は病をつくろひ命をたもたむとこそ思ひつるに、思はざるに我が身を失ふべからむには、いかでかうちとけてもあるべきとおぼして、皇子たちをひき具し奉りて物にも乘り給はずして東國の方へ入り給ひし道に、縣犬養大伴といひしものあひ奉りて馬に乘せ奉りてき。又后宮をこしに乘せ奉りて御ともには皇子二人をのこども二十餘人女十餘人ぞつき奉りたりし。その日勉〈菟歟〉田といふ所におはしつきたりしに狩人二十餘人從ひ奉りにき。またよね負はせたる馬卅疋ばかりあひ奉りたりしを、そのよねをおろしすてゝかちにて御供にさぶらふ人を皆乘せたまひて夜中ばかりに伊賀の國におはしつきて國の軍あまた從ひ奉りしを相具して明くる日伊勢の國におはして天てる御神を拜し奉り給ひき。國の守五百人の軍をおこして鈴鹿の關をかため、大友皇子三千人の軍をひきゐて不破の關をかたむ。御門ふはの宮におはして