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なりにきこれは般若のふしぎなり」となむ申しゝ。心に萬法皆空しと思ひて觀念のいたりけると覺えてあはれに侍りし事なり。

     第四十天智天皇〈治十年崩。葬山城國山科北陵。〉

次の御門天智天皇と申しき。舒明天皇第二の御子。御母は齊明天皇なり。孝德天皇位に即き給ひし日東宮に立ち給ひき。壬戌の年正月三日位に即き給ふ。世をしり給ふ事十年なり。七年と申しゝ十月十三日鎌足內大臣になりたまふ。この御時に始めて內大臣といふつかさはいできしなり。御姓は中臣と申しゝを、藤原とたまはせき。大織冠となむまうしゝ。かゝりし程に御心ち例ならずおぼされしが、まことしく重り給ひし時に御門行幸し給ひて「おぼしおく事あらばのたまはせよ」と仰せ事ありしかば、大臣「今はかぎりに侍る。何事をかは申し侍をるべき」と申し給ひしを聞し召して御門御淚に咽びて歸らせ坐しまして、御おとゝの東宮を又大臣の家に遣して「の給はせよ」とて「さきざきの御門の御後見多かりしかども、大臣の志に比ぶべき人更になし。われ一人かく去り難く思ふのみにあらず、次々の御門大臣の末をめぐみて年比の恩を必ずむくゆべし」とのたまはせて、太政大臣にあげ奉り給ふよし仰せ給ふと、その時の人申しあひたりしかども、この事はたしかにも聞き侍らざりき。內大臣になり給ふを太政大臣とはひが事ぞとも申しあひたりしなり。十六日に遂にうせ給ひにき。御門歎きかなしび給ふ事かぎりなし。先に申し侍りつるやうに御門も王子と申し、大臣もいまだ位淺くおはせしに御沓とりて奉り給へりし。はかなかりし御心よせの後位に即き給ひ