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めてこの淨土のありさまを寫し書かせて朝夕にこれを觀じて遂に極樂にまゐりにき。かゝれば佛道は唯心によるべき事なり。

     第卅九齊明天皇〈治七年 年六十八。葬越智大間陵。〉

次の御門齊明天皇と申しき。此は皇極天皇と申しゝ女帝の又かへり即き給ひしなり。乙卯の年正月三日位に即き給ふ。世をしり給ふ事七年なり。二年と申しゝに鎌足病をうけて久しくなり給ひしかば御門大きに歎かせ給ひしに、百濟國より來れりし尼法明といひし「維摩經を讀みてこの病を祈らむ」と申しゝかば御門大きに悅び給ひき。法明この經を讀みしに即ち鎌足の御病をこたり給ひにき。さて明くる年山階寺をたてゝ維摩會を始め給ひしなり。七月に智通智達といふ二人の僧をもろこしにつかはして玄奘三藏に法相宗をば傳へ習はせ給ひしなり。この御時に義覺といふ僧ありき。百濟國より來れりし人なり。難波の百濟寺になむ住み侍りし。其の寺に惠義といふ僧ありき。夜中ばかりに出でゝ義覺がある所をよりて見れば室の內に光を放てり。惠義あやしく思ひて密に窓の紙をやぶりて見れば義覺經を讀みける口より光を放てるなり。惠義あさましく思ひて明くる日なむ人々にかたり侍りし。義覺弟子に語りしを聞き侍りしかば「一夜心經を讀み奉りて百返ばかりになりし程に目を見上げて室の內を見しかば、めぐりにへだても更になくて庭のあらはに見えしかば、いかなる事にかと思ひて室を出でゝ寺の內を見めぐりて歸りたりしかば、もとの如く壁もありとぼそも閉ぢたりしかば、室のほかのゆかにゐて又心經を讀み奉りしに、先にありつる樣に隔てもなく