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まはりし。御病により金液丹といふ藥をめしたりけるを、その藥くひたる人はかく目を惱むなど人は申しゝかど、まことには桓算供奉の御ものゝけに顯はれて申しけるは、「御首にのりゐて左右のはねをうちおほひ申したるに、うちはぶき動かすをりに少し御覽ずるなり」とこそいひ侍りけれ。御位去らせ給ひしこと、多くは中堂にのぼらせ給はむとなり。さりしかどのぼらせ給ひて更にそのしるしおはしまさゞりしこそ口惜しかりしか。やがてをこたらせおはしまさずとも少しのしるしはあるべかりしことよ。さればいとゞ山の天狗のし奉るとこそさまざまに聞え侍るめれ。太秦にも籠らせ給へりき。さて佛のお前よりひんがしの廂にくみれはせられたるなり。御烏ばう子せさせ給へりけるは大入道殿にこそいとよく似奉り給へりけれ。御心さへいとなつかしうおいらかにおはしまして、世の人いみじうこひ申すめり。「齋宮の下らせ給ふ別の御櫛さゝせ給ひては、かたみに見かへらせ給はぬことを、思ひかけぬに、この院はむかせ給へりし。あやしとは見奉りしものを」とぞ入道殿おほせられける。〈寬仁元年五月九日うせさせ給ふ。御年四十二。〉

     六十八代

次の御門、當代、御諱あつなり。これ一條院の御第二王子なり。御母今の入道殿下の第一の御むすめなり。皇太后宮彰子と申す。唯今は誰かはおぼつかなく覺し思ふ人の侍らむ。されどまづすべらきの御事を申すさまにたがへ侍らぬなり。寬弘五年戊申九月十一日、土御門殿にて生れさせ給ふ。同八年辛亥六月十三日、東宮に立たせ給ひき。御年四歲。長和五年丙辰五月