Page:Kokubun taikan 07.pdf/220

提供:Wikisource
このページは校正済みです

と申しゝかば、すべからく位を繼ぎ給ふべかりしに、兄にゆづり申し給ひしかども、互につぎ給はずして空しく三年をすぐさせ給ひしかば、東宮みづから命をうしなひ給ひにき。御門この事をきこしめして、かの東宮へ急ぎおはしまして泣きかなしび給ひしかども、かひなくて、その後位には即かせたまひしなり。四年と申しゝ二月に高き樓に登りて四方の民のすみかを見給ひて、烟絕え寂しかりしかば、今より後三年民を休め、九重の內の修理をとゞめさせ給ひき。さて七年と申しゝ四月に、又樓にのぼりて御覽ぜしに、民のすみかにぎはひて御覽ぜられければ、御門よませたまひし、

  「たかき屋にのぼりて見れば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり」。

四十二年と申しゝ九月にぞ、鷹の鳥をとるといふことは知りそめて、かりはじめ給ひし。五十五年と申しゝに、武內の大臣うせ給ひにき。年二百八十にぞなりたまひし。六代の御門の御後見をして、大臣の位にて二百四十四年ぞおはせし。六十二年と申しゝに、氷すうることは出できはじめて、今にいたるまで供御にそなふるなり。この御門御かたち世にすぐれて御心ばへめでたくおはしましき。

     第十八履中天皇〈六年崩。年六十七。葬和泉國百舌鳥耳原陵。〉

次の御門履中天皇と申しき。仁德天皇第一の御子。御母の皇后磐之媛なり。仁德天皇三十一年に東宮にたちたまふ。御年五歲。庚子の年二月一日位に即き給ふ。御年六十二。世をたもち給ふ事六年。父みかどうせおはしまして後いまだ位に即き給はざりし程に、葦田宿禰のむす