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     第十六應神天皇〈四十一年崩。御年百十一。葬河内國惠我藻陵。〉

次の御門應神天皇と申しき。今のやはたの宮はこの御事なり。仲哀天皇第四の御子、御母神功皇后におはします。神功皇后の御世三年に東宮に立ちたまふ。御年四歲なり。庚寅の年正月丁亥の日位に即きおはしましき。御年七十一。世をしろしめすこと四十一年なり。八年と申す四月に武內の大臣を筑紫へつかはして事を定めまつりごたせ奉らせ給ひしに、この武內の御おとゝにておはせし人の御門に申し給はく「武內の大臣常に王位を心にかけたり。筑紫にて新羅高麗百濟この三つの國をかたらひておほやけを傾け奉らむとす」となき事を讒し申しゝかば、御門人を遣はしてこの武内を討たしめ給ふに、武內なげきて「われ君のため二心なし。今罪なくして身をうしなひてむとす。心うき事なり」とのたまふ。その時に壹岐直の祖眞根子といふものありき。かたち武内の大臣に違はず相似たりき。この人大臣に申していはく「かまへて遁れて都へ參りて罪なきよしを奏し給へ。われ大臣にかはり奉らむ」とて進みいでゝみづからしぬ。武內密に都にかへりて事のありさまを申し給ふに、おとゝたち二人を召して重ねて問はせ給ふに武內罪おはせぬよしおのづからあらはれにき。その後御門この武內の大臣を寵したまひしなり。

     第十七仁德天皇〈八十七年崩。年百十。葬和泉國百舌鳥野陵。〉

次の御門仁德天皇と申しき。應神天皇第四の皇子。御母の皇后仲姫なり。癸酉の年正月己卯の日位に即き給ふ。御年二十四。世をしり給ふ事八十七年なり。この御門の御おとゝを東宮