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船八十に積みてたてまつる。高麗百濟といふ二つの國この事をきゝておぢ恐れて進みてしたがひ奉りぬ。かくて筑紫にかへり給ひて十二月に王子をうみ奉り給ひき。これぞやはたの宮にはおはします。あくる年皇后京へかへり給ひしを、御まゝ子の御子たち思ひ給ふやう、父みかどうせ給ひにけり、又皇后旣に皇子をうみ奉り給ひてけり、これを位に即けむとこそはかり給ふらめ、我らこのかみにていかでかおとゝに從ふべきとて、播磨の明石にて皇后を待ち奉りて傾け奉らむとはかり給ひしを、皇后きゝ給ひて、みづから王子を抱き奉りたまひて武內の大臣に仰せられて、南海へ御船をいだし給ひしかば、おのづから紀伊の國にいたり給ひにき。その後御子たちむほんを起し給ひて、皇后をかたぶけ奉らむとし給ひしほどに、赤きゐのしゝ出できたりて、このかみの御子を食ひ殺してき。その後次の御子武內の大臣と又戰ひ給ひしもうしなはれ給ひにき。さてもあさましかりし。このたゝかひの間晝も夜の如くに暗くて日數のすぎしを、皇后大にあやしみ給ひて、年老いたるものどもに問ひ給ひしかば「二人を一所に葬りたるゆゑなり」と申しゝかば、尋ねさせ給ふに、小竹祝と天野祝といふものいみじきともにてとしを經るに、この小竹祝うせにけるを、天野祝なきかなしびて、我れ生きて何にかはせむとて傍に臥しておなじくなくなりにけるを、ひとつ塚にこめてけりと申しゝかば、その塚を毀ちて見せたまふに、誠に申すが如くなりしかばほかほかにうづまさせ給ひて後、即ち日の光あらはれにしなり。十月に臣下たち皇后を皇太后にあげたてまつる。この程とぞおぼえ侍る、祇園精舍を天魔やき侍りにけりときゝはべりし。