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生るゝなり。但し地獄の業なほつきぬ衆生をばこと三千界の地獄へしばしうつしやるなり。かくて第二十の刧に火いできてしも風輪とて風吹きはりたる所のうへより梵天まで山川も何もかもなくやけ失せぬ。かく破れぬれば壞刧とは申すなり。次に空刧と申して又二十の中刧の程を世の中になにもなくて大空の如くにて過ぐるなり。空しければ空刧とは申すなり。この成住壞空の四刧をふるほどは八十の中刧を過ぐしつるぞかし。これを一の大刧とは申すなり。かくて終りてはまた始まり終りてはまた始まりして、いつを限といふことなし。かくの如くして水火風災などあるべし。事長ければ申さず。この住刧と申しつるに佛は世にいで給ふなり。その中に人の命まさりざまなるをりは樂み奢れる心のみありて敎にかなふまじければいで給はず。命やうやうおちつかたに物のあはれをもしり敎事にもかなひぬべきほどを見計ひて出で給ふなり。この住刧にとりてはじめ八刧には佛いで給はず、第九の减刧に七佛のいで給ひしなり。釋迦のいで給ひしは人の命百歲の時なれば、第九刧のむげにすゑになりにたるにこそ。第十の减刧のはじめに彌勒はいで給はむずるなり、第十五の减刧に、九百九十四佛いで給ふべし。かくの如く世に從ひて人の命も果報もなりまかるなり。大方はさることにてこの日本國にとりても又なかなか世あがりては事定まらず、却りてこの頃にあひ似たる事も侍りき。佛法わたり因果辨へなどしてより、やうやうしづまりまかりしなごりのまた末になりて、佛法もうせ世のありさまもわろくなりまかるにこそあるべきことわりなればよしあしを定むべからず。偏にあらぬ世になるにやなどあざむき思ふべからず。萬壽