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〈月四日うせさせたまふ。御歲三十一。〉元慶三年五月八日御出家なり。水の尾の御門と申す。この御すゑぞかし、今の世に源氏の武者のぞうは。これもおほやけの御かためとこそはなるめれ。御母二十三にて此の御門をうみ奉り給へり。貞觀六年甲申正月七日、皇后宮にあがりゐ給ふ。きさいのくらいにて四十一年おはします。そめどのゝきさきとまうす。その御ときの護持僧は智證大師におはします。〈天安二年つちのえ〉とらの年八月廿七日にぞうせさせたまふ。みさゝきたむらといふところにあり。〈天安以下四十二文字イ無衍歟〉御ものゝけのかなはざりけるこそ心うくは。今生寇なり。天安二年に唐よりかへりたまへり。

     五十七代〈この御門ものぐるほしくおはしましたりといへる本あり。〉

次の御門、陽成天皇と申しき。御諱さだあきら。淸和天皇第一の皇子なり。御母は皇太后宮高子とまうしき。贈太政大臣長良のおとゞの御むすめなり。この御門、貞觀十年つちのえね十二月十六日、染殿院にて生れたまへり。同十一年つちのとのうし二月一日、二歲にて東宮に立たせ給ひて、同十八年丙申十一月廿九日に位に即かせ給ふ。御年九歲。元慶六年壬刁正月二日御元服。御年十五。世をしらせ給ふ事八年。〈元慶八年二月四日、おりさせ給ふ。御年十七、二條院におはしましけるとぞ。〉のかせ給ひて六十五年なれば、八十一にて天曆二年九月廿九日にかくれさせ給ふ。御法事の願文に釋迦如來の一年のこのかみとは作られたるなり。智惠深く思ひよりけむ程いとけうあれど、佛の御年よりは御年高しといふ心の後世のせめとなむなれるとこそ人の夢に見えけれ。御母后、淸和の御門よりは九年の御姉なり。廿七と申しゝとし、この陽成院をば產み奉り給へるなり。元