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慶元年正月に后に立たせ給ひて中宮と申す。御年三十六。同六年壬寅正月七日、皇太后宮にあがり給ふ。御年四十一。この后の宮づかへしそめ給ひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだよごもりておはしける時、在中將のしのびてゐてかくし奉りたりけるを御せうとの君たち、基經の大臣、國經の大納言などの若く坐しけむほどのことなりけむかし、とりかへしにおはしたりけるをり、「つまもこもれり我もこもれり」とよみ給ひたるはこの御事なれば「末の世に神代のことも」とは申しいで給ひけるぞかし。されば世のつねの御かしづきにては御覽じそめられ給はずやおはしましけむと覺え侍る。若し離れぬ御中にて染殿の宮に參り通ひなどし給ひけむほどの事にやとぞおしはからるゝ。及ばぬ身にかやうの事をさへ申すはいとかたじけなき事なれど、これは皆人のしろしめしたる事なり。いかなる人かはこの頃古今伊勢物語など覺えさせ給はぬはあらむずる。「見もせぬ人のこひしきは」など申す事もこの御中らひの程とこそはうけたまはれ。末の世まで書きおき給ひけむ、おそろしきすきものなりかしな。いかに昔はなかなかにけしきある事もをかしき事もありけるものとて」」とうち笑ふけしきことになりていとやさしげなめり。「二條の后と申すはこの御事なり。業平の中將の「よひよひごとにうちもねなゝむ」とよみ給ひたるも「春やむかしの」などもこの御事なめり。

     五十八代

次の御門、光孝天皇と申しき。御諱は時康、仁明天皇の第三の王子なり。御母贈皇太后宮澤子