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とこそ覺え侍れ。嘉祥三年庚午三月廿一日位に即かせ給ふ。御年二十四。さて世を保たせ給ふ事九年。天安二戊刁の歲八月廿七日にうせさせ給ひぬ。御年三十二。陵、田村にあり。御母の后十九にてぞこの御門を產み奉りたまふ。嘉祥三年庚午の歲四月に后に立たせたまふ。御年四十三。齊衡元年甲戌皇太后宮にあがりゐ給ふ。貞觀三年辛巳二月廿九日御出家。〈灌頂せさせ給へり。〉同八年丙戌正月七日、太皇太后宮にあがりゐ給ふ。これを五條の后と申す。伊勢物語に業平の中將、「よひよひごとにうちもねなゝむ」とよみ給ひたるはこの宮の御事のやうにさふらふめる。いかなる事にか、二條の后に通ひ申されけるあひだの事とぞうけたまはり及ぶや。「春やむかしの」なども五條の后の御家と侍るは、わかぬ御中にてその宮にやしなはれ給へれば同じ所におはしけるにや。

     五十六代〈この御門御かたちめでたく御心いつくし。〉

つぎのみかど、淸和天皇と申しける。御諱惟仁、文德天皇の第四のみこなり。御母は明子〈皇太后宮〉とまうしき。太政大臣良房のおとゞの御むすめなり。このみかどは嘉祥三年庚午三月二十五日、母がたの御おほぢおほきおとゞの小一條の家にて、父みかどの位に即かせ給ひて五日といふ日生れ給へりけむこそいかに折さへ華やかにめでたかりけむと覺え侍れ。惟喬のみこの東宮あらそひし給へりけむもこの御事とこそ覺ゆれ。やがて生れ給へる年の十一月廿五日東宮に立ち給ひて、天安二年戊刁八月廿七日御年九歲にて位に即かせ給ふなり。貞觀六年正月七日御元服。〈元日御元服なり。〉御年十五なり。世をしらせ給ふ事十八年。〈貞觀十八年十一月廿九日、染殿院にておりさせ給ふ。元慶四年十二〉