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かりの事をかと思ふに、いみじうこそいひ續け侍りしか。「「世の中の攝政關白と申し、大臣公卿と聞ゆる、いにしへ今の時の入道殿の御有樣のやうにこそはおはしますらめとぞ今やうのちごどもは思ふらむかし。されどそれさもあらぬ事なり。いひもていけば同じ種一つすぢにぞおはすめれど、かどわかれぬれば、人々の御心もちゐも又それにしたがひてことごとになりぬ。この世はじまりて後、みかどはまづ神のよ七代をおき奉りて、神武天皇を始め奉りて、當帝まで六十八代にぞならせ給ひにける。すべからくは神武天皇を始め奉りてつぎつぎの御門の御次第をおぼえ申すべきなり。しかりといへども、それはいときゝ耳遠ければ唯近きほどより申さむと思ふに侍り。文德天皇と申す御門おはしましき。その御門よりこなた、今の御門まで十四代にぞならせ給ひにける。世をかぞへ侍れば、その御門位に即かせ給ふ嘉祥三年庚午の年よりことしまでは一百七十六年ばかりにやなりぬらむ。かけまくもかしこき君の御名を申すは忝なくさふらへども」」とていひつゞけはべりき。

     五十五代〈或る本に云ふ、田邑帝と申す。〉

「「文德天皇と申しける御門は仁明天皇の御第一の皇子なり。御諱は道康、御母は太皇太后藤原順子と申しき。その后左大臣贈正一位太政大臣冬嗣のおとゞの御むすめなり。この御門天長四年丁未八月に生れ給ひて、み心あきらかに、よく人をしろしめせり。承和九年壬戌二月廿六日御元服、同年八月四日東宮に立たせたまふ。御年十六。仁明天皇、もとおはする東宮をとりてこの御門を承和九年八月四日東宮に奉らせ給へるなり。いかに安からずおぼしけむ