Page:Kokubun taikan 02.pdf/99

提供:Wikisource
このページは校正済みです

ひたることは、誠にたぐひあらじとのみ思ひ聞え給へり。今年は三十七にぞなりたまふ。見奉り給ひし年月のことなども哀におぼし出でたるついでに「さるべき御いのりなど常より取り分きて今年は愼み給へ。物騷しくのみありて、思ひ至らぬことしもあらむを、猶おぼしめぐらしておほきなる事どもし給はゞおのづからせさせてむ。故僧都の物し給はずなりにたるこそいと口惜しけれ。大方にて打ちたのまむにも、いとかしこかりし人を」などの給ひ出づ。「自らはをさなくより、人に異なるさまにてことごとしくおひ出でゝ、今の世のおぼえありさま、來し方にたぐひなくなむありける。されど又世にすぐれて悲しきめを見る方も人にはまさりけりかし。まづは思ふ人にさまざま後れ殘りとまれる齡の末にも、飽かず悲しと思ふこと多くあぢきなくさるまじきことにつけてもあやしく物おもはしく、心にあかず覺ゆることそひたる身にてすぎぬれば、それにかへてや思ひしほどよりは今までもながらふるならむとなむ思ひ知らるゝ。君の御身には、かのひとふしのわかれよりあなたこなた物思ひとて、心亂り給ふばかりのことあらじとなむ思ふ。后といひ、ましてそれより次々はやんごとなき人といへど、皆必ず安からぬ物思ひそふわざなり。高きまじらひにつけても心みだれ人に爭ふ思ひの絕えぬもやすげなきを、親のまどのうちながらすぐし給へるやうなる心やすきことはなし。そのかたは人に勝れりたりけるすくせとはおぼししるや。思の外にこの宮のかく渡り物し給へるこそはなまぐるしかるべけれど、それにつけてはいとゞ加ふる志のほどを、御みづからの上なればおぼし知らずやあらむ。物の心も深く知り給ふめれば、さり