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にすべてもらさぬを、なかなかほかには聞ゆることもあらむかし。うつゝの人々の中に忍ぶる事だにかくれある世の中かはなど思ひいりて、この人にもさなむありしなどあかし給はむことは猶口おもき心ちして「猶あやしと思ひし人のことに似てもありける人のありさまかな。さてその人は猶あらむや」とのたまへば、「かの僧都の山より出でし日なむ尼になしつる。いみじう煩ひし程にも皆人をみてせさせざりしを、さうじみの本意深きよしをいひて、なりぬるとこそ侍るなりしか」といふ。所もかはらずそのころの有樣など思ひあはするに違ふ節なければ誠にそれと尋ね出でたらむ、いとあさましき心ちもすべきかな、いかでかたしかに聞くべき、おりたちて尋ねありかむもかたくなしなどや人のいひなさむ、又かの宮も聞きつけ給へらむには必ずおぼし出でゝ思ひ入りにけむ道も妨げ給ひてむかし、さてさなのたまひそなど聞え置き給ひければにや、われにはさる事なむ聞きしと、さる珍しき事を聞し召しながらのたまはせぬにやありけむ、宮もかゝづらひ給ふにてはいみじう哀と思ひながらも、更にやがてうせにしものと思ひなしてをやみなむ、うつゝびとになりて末の世には黃なる泉のほとりばかりをおのづから語らひよる風のまぎれもありなむ。我が物にとり返し見むの心は又つかはじなど思ひ亂れて、猶の給はすやあらむと覺ゆれど、御氣色のゆかしければ大宮にさるべき序作り出でゝぞ啓し給ふ。「あさましうて失ひ待りぬと思ひ給へし人、世におちあぶれてあるやうに人のまねび侍りしかな。いかでさる事は侍らむと思ひ給へれど、心とおどろおどろしうもてはなるゝことは侍らずやと思ひわたり侍る人の有樣に侍れ