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  見し人はかげもとまらぬ水の上に落ちそふ淚いとゞせきあへず、となむ侍りし。殊にあらはしてのたまふ事は少けれど唯氣色にはいと哀なる御さまになむ見え給ひし。女はいみじくめで奉りぬべくなむ、若く侍りし時より優におはしますと見奉りしみにしかば、世の中に一の所も何とも思ひ侍らず、唯この殿を賴み聞えてなむ過ぐし侍りぬる」と語るに、殊に深き心もなげなるかやうの人だに御有樣は見知りけりと思ふ。尼君「ひかる君と聞えけむ故院の御有樣にはえならび給はじと覺ゆるを、只今の世にこの御ぞうぞめでられ給ふなる。左のおほいどの」とのたまへば「それはかたちもいとうるはしう淸らにしうとくにてきはことなるさまぞし給へる。兵部卿の宮ぞいといみじくおはするや、女にてなれ仕うまつらばやとなむ覺え侍る」など敎へたらむやうにいひつゞく。哀にもをかしくも聞くに身の上もこの世の事とも覺えず、滯ることなく語り置きて出でぬ。忘れ給はぬこそはと哀に思ふにもいとゞ母君の御心の中推し量らるれど、なかなかいふかひなきさまを見え聞え奉らむは、猶いとつゝましくぞありける。かの人のいひつけし事などを染め急ぐを見るにつけても、怪しく珍らかなる心ちすれどかけてもいひ出でられず、裁ち縫ひなどするを「これ御覽じ入れよ、物をいと美しくひねらせ給へば」とて、小袿のひとへ奉るを、うたて覺ゆれば心地惡しとて手も觸れず臥し給へり。尼君急ぐことをうち拾てゝいかゞおぼさるゝなど思ひ亂れ給ふ。紅に櫻の織物の袿かさねて「御前にはかゝるをこそ奉らすべけれ、あさましき墨染なりや」といふ人あり。