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りわたれる水の音せぬさへ心ぼそくて「君にぞまどふ」とのたまひし人は心憂しと思ひはてにたれど、猶そのをりなどのことは忘れず、

 「かきくらす野山の雪をながめてもふりにしことぞ今日も戀しき」など例のなぐさめの手習を行ひのひまにはし給ふ。われ世になくて年隔たりぬるを思ひ出づる人もあらむかしなど思ひ出づる時も多かり。若菜をおろそかなるこに入れて人のもて來たりけるを、尼君見て、

 「山里の雪まの若菜つみはやし猶おひさきのたのまるゝかな」とてこなたに奉り給へりければ、

 「雪ふかき野邊のわかなも今よりは君がためにぞ年もつむべき」とあるをさぞおぼすらむと哀なるにも見るかひあるべき御さまと思はましかばとまめやかにうちない給ふ。ねやのつま近き紅梅の色も香も變らぬを春やむかしのとこと花よりもこれに心よせのあるは、あかざりしにほひのしみにけるにや、ごやにあか奉らせ給ふ。下臈の尼の少し若きがある召し出でゝ花折らすればかごとがましくちるにいとゞにほひくれば、

 「袖ふれし人こそ見えね花のかのをそれかとにほふ春のあけぼの」。大尼君の孫の紀守なりけるがこの比上りて來たり。三十ばかりにてかたち淸げに誇りかなるさましたり。「何事かこそおとゝし」など問ふに、ぼけぼけしきさまなれば、こなたに來て「いとこよなくこそひがみ給ひにけれ、哀にも侍るかな。のこりなき御さまを見奉ることかたくて遠き程に年月を過