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 「岸遠くこぎはなるらむあま船に乘りおくれじといそがるゝかな」。例ならずとりて見給ふ。ものゝ哀なるをりに今はと思ふも哀なるものからいかゞおぼさるらむ。いとはかなき物のはしに、

 「心こそうき世の岸をはなるれど行くへも知らぬあまのうき木を」例の手習にし給へるをつゝみて奉る。「書きうつしてだにこそ」とのたまへど「なかなか書き損ひ侍りなむ」とてやりつ。珍しきにもいふ方なく悲しくなむ覺えける。物詣の人歸り給ひて思ひ騷ぎ給ふ事かぎりなし。「かゝる身にては進め聞えむこそはと思ひなし侍れど、のこり多かる御身をいかで經給はむとすらむ。おのれは世に侍らむこと今日明日ともしり難きにいかで後ろ安く見おき奉らむとよろづに思ひ給へてこそ佛にも祈り聞えつれ」とふしまろびつゝいといみじげに思ひ給へるにもまことの親のやがてからもなきものと思ひ惑ひ給ひけむ程推し量るぞ先いと悲しかりける。例のいらへもせで背き居給へるさまいと若く美しげなればいと物はかなくぞおはしける。つらき御心なれどなくなく御ぞの事など急ぎ給ふ。鈍色は手なれにしことなれば小袿袈裟などしたり。ある人々もかゝる色を縫ひ着せ奉るにつけてもいと覺えず。嬉しき山里の光と明暮見奉りつるものを、口惜しきわざかなとあたらしがりつゝ僧都を怨みそしりけり。一品宮の御惱げにかの弟子のいひしもしるく、いちじるき事どもありて怠らせ給ひにければ、いよいよいと尊きものにいひのゝしる。名殘もおそろしとて御修法延べさせ給へば、とみにもえ歸り入らで侍ひ給ふに、雨などふりてしめやかなる夜召してよゐに侍